先入観を持つのは良くないという考え
先入観を持つのはよくないことだ。
僕がこの考えと出会ったのは比較的早い時期だったと思う。中には先入観のことなんて、一度も考えることなく人生を全うする人だっているかもしれない。
僕の場合、母の「西村知美嫌い」が「先入観を持つことはよくない」という考えにつながったのだと推測される。
「先入観って危険だ」と感じたエピソード
たしか、小学校四年生ぐらいだったと思う。
テレビ画面には、いつもルーティーンのように見ていた「さんまのからくりテレビ」の映像が映し出された。
僕も小さいながらもド下ネタ満載のご長寿クイズのコーナーが好きであった。さんまさんの登場でスタジオが沸き、最初からキレッキレでフルスロットルのトークでゲストの紹介が始まる。
そして西村知美が写った瞬間、
チャンネルが変わった。
あれ?
リモコンを持つ母親と目があった。僕が何かを発したわけではない。
「私。西村友美嫌い」
その言葉と表情で十分だった。
いつも天使のような慈愛精神で僕を優しく見守ってくれている母の顔ではない。
憎しみのこもった表情だった。だが、西村知美と何があったのかは分からない。
たしかにテレビで見る西村知美は天然でうっかりさんだ。番組のすっぽかし事件は今でも記憶に新しい。
だからといって、うっかり実家を燃やされたとか、そういう理由があった訳ではない。
僕の記憶が正しければ西村知美に逮捕歴はなかったと思う。念のためにGoogleで調べてみる。

やはり、逮捕歴はないようだ。
3件目に「リカちゃん人形は救急車の味がする」という、どこからツッコめばいいか分からない言動をしているが、おそらく逮捕にはいたってないだろう。
⋯⋯というか、このキーワードでGoogle検索した人って歴代で何人ぐらいいるのだろうか?
もしかしたらウチの母親は西村知美のスキャンダルをどうにかしてつかんでやろうという思いで、検索をしているかもしれない。つまり、親子二代で西村友美の逮捕歴を検索するという、とんでもなくイカれた親子ということは間違いない。
母が西村知美を嫌いだった理由
話を戻すと、母がなぜ西村知美を嫌いだったのか?
それは、やっぱり先入観だったのだろう。当時の僕はそう結論づけていた(先入観という言葉知らなかったかもしれないが、何も知らない人のことを印象付けるのは良くないな、くらいには思っていた⋯⋯だろう)
もう少し、母の心理状況を推理してみると、少し後ににブレイクしていたさとう玉緒にはそれほど嫌悪感を抱いてはなかった。
どちらも天然キャラような立ち位置だったのだが、大きな違いが一つある。
それは、いじられ方の違いだった。
さとう玉緒の天然には世間が公式で嫌うブリッコ属性が入っていて、明らかにアンチの存在が見えていた。わざわざウチの母親様が嫌わなくても公式で嫌われている人が見えている構図である。
これは安心設計だ。
一方、西村知美はどうだろうか?天然でうっかり番組をすっぽかしても、それを覆す天然ワードで笑いに変えていた節がある。周りも笑いに変えようとフォローする。
つまり、有り体に言うと「ミスしてんのにチヤホヤされていた」のだ。
これはクソがつくほど真面目に生きてきた母からすると許せないだろう。
「真面目に生きてきた私がバカみたいじゃない」と発泡酒を飲む手が止まらなかったことだろう(実際に止まってなかった)
ただ僕としては、心理は理解できるが、共感は得られないという気持ちだった。
結局は、世間の印象操作に感情を揺さぶられているだけなのだ。
番組として笑いというエンターテイメントになっているならそれでいいじゃん。笑いって正義やん?僕はそんな風に思っていた。
という訳で、母の先入観による西村知美嫌いを間近でみるにあたり、僕に先入観を持って人を印象付けることは気をつけよう!という意識が芽生えたのだ。
ちなみに野村監督だって先入観は良くないと言っている。
先入観に気をつけていた青春時代
僕が先入観に気をつけて日常を過ごしていた証拠は、高校時代の人間関係に顕著に現れている。
高校は都立工業高等専門学校と呼ばれる5年生の工業高校だった(高専と呼ばれていた)
そこの男女比率は9:1で男が多く、5:5で不良とオタクに別れるような学校だった。(不良と言っても、みんな優しい心を持っていて、タバコ吸ったり、髪を染めたり、ピアスをしたり、チャラついた服を着たりするだけの子達だった。ちなみにオタクはガチ中のガチ)
僕の交友関係は少し特殊で、メインの友人にバンドのメンバーとチャラつき軍団がいて、授業中にギャルゲーをプレイする愛すべきオタク達とも一緒に遊んでいた。ビジュアル系バンドのジャンヌダルクも好きだったのでビジュアル系好きの友達もいて、昼休みにバスケやブレイクダンスの練習をしていたからスポーツ系の友達もいた。
とにもかくにも、偏見を一切なくして交友関係を作っていった。
もちろん全員と友達にはなれない。会話して波長が合わなければ、無理して距離を縮めようとも思わない。
でも、オタクだからと言って彼らと話さないのはもったいなぁとは思っていた。彼らの中にはボキャブラリーやワードセンスに秀でた者も多い。好きだからこそのオススメアニメも説得力がある。
彼らが進めてくれたカレイドスターというアニメは今でも僕を勇気付ける名作だと思っている。
そんなこんなで、先入観を断ち切って生活することが正解だと信じて今まで生きてきた。
しかし、最近になって自分が無意識に先入観を持って距離を置いてしまっているモノがあることに気がついてしまった。
自己啓発嫌いという先入観
二十代はとにかく起業・独立に興味があり、セミナーに行ったり、ビジネス書を読みまくった時代だった。本を読んだだけで、自分が高位の存在になったと勘違いして、居酒屋でしたり顔でビジネス的マインドを披露していた気がする。過去の自分とは絶対に友達になれない。
で、あるときからビジネス書との向かい合い方が変わった。世間でマインドコントロールという言葉が流行り出した頃だったと思う。僕の中でビジネス書と自己啓発本が合体し、自己啓発って何か宗教っぽいよな、という浅い先入観で本を読まなくなってしまったのだ。(読まなくなった理由の一つとして「結構な数を読んだし、内容もだいたい同じだろう」という、これまた浅はかな先入観がある)
もちろん、今は自己啓発が悪いという考えはみじんも持っていない。実際、心が疲れた時には自己啓発関連の言葉がすごく染み渡る。結局は使うタイミングで、同じ内容だろうが効き目がまったく違うのだ。冬の暖炉前でスポーツドリンクを飲むより、真夏の運動後に飲むスポーツドリンクの方がうまい。当たり前だろ、と思うけれど、これが本にも通用するんだ、ということは僕の中で大きな気付きであった。
少し脱線したので話を戻す。
気をつけていても先入観を持ってしまう理由
先入観を持つのは良くないと知っていながらも「自己啓発」という言葉に先入観(宗教っぽい印象)を持ってしまったのは、なぜだろう?
これは、言葉の持つ力が大きいと考える。
優れたキャッチコピーには莫大な価値がある。
価値を分かりやすく言い換えるとお金になる。つまり、人を動かす。そのくらい言葉の力は大きい。
まだまだ、先入観で嫌悪するワードはたくさんある。
個人的なところで言うと
- ガーリーってなんなん?
- 映えって聞くとぞくっとする。
- ソリューションとスキームって表現の幅エグくない?
- 券売機スタイルのラーメン屋だとごちそうさま言うタイミングむずくない?
⋯⋯すいません。あまり思いつかなくてカテゴリ違いが混ざりましたm(_ _)m
また、別記事で書いてみようかな。
つまり何が言いたいのかを整理すると、
・(引き続き)先入観を持つのは良くない
・癪に障る言葉のくくりに注意しよう←先入観で操作される節がある
ということです。
記事タイトルの「先入観を消して生きるために注意すること」の答えとしては、
「世間の都合でキャッチーにくくられた言葉」
これに注意しなきゃいけません。
で、考えすぎて最終的には
先入観を持つことは悪いっていう考えが先入観なんじゃないの?という疑問にぶつかります。
もし、将来大きくなった息子に問い詰められたら「黙ってお菓子を渡して買収する」という教育方針でいこうと思います。
P.S
ちなみに母とは週1で2人で飲みに行くくらい(コロナ前までは)仲が良いです。
落ち着いたらまた安い居酒屋で飲み行きたいなぁ。
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